毎日、しらとりが書いて、まるやまが描くブログです。

2015年3月19日木曜日

個人的音楽史にみるエクソダス(20代)



3月18日(水)に引き続き考えたこと



(前日からの続き)

幼少期からのピアノとバイオリンの

アウシュビッツな強制練習は、

憎悪というプレイスタイル(生き方)を

自分に与えてくれた。

それは表面では拒絶しながらも、

実は甘えているという依存関係だった。

ふてぶてしくレールに乗っていただけ。

想い出しても恥ずかしい。

それをかっこつけて飛び降りたものだから、

案の定、大けがをした。

音楽と取り違え、刺激に手を出したからだ。

問題は刺激にあるのではなく、

音楽と刺激を混同し

刺激にプレイスタイル(生き方)を

求めたことにある。

だから10代最後は毎日がホワイトアウト。

20代の歴史はここからはじまる。



とはいえ刺激は自分に色々なものをくれた。

自分ではない自分、自分の中に眠る自分、

自分を超えた自分、もうひとりの自分。

ひたすら真っ白い世界で

自分をフラグメントし続けながら

他者とはいつだって

「同じ場所」で出会えると信じていた。

それがトランスとレイブ。

ちょうど時代は世紀末だ。



はじめて自分で楽器を選ぶのも1999年。

バイトをして浅草でジャンベを買い、

代々木公園で叩き、ハチ公前で叩き、

恵比寿駅前で叩き、五反田のアフリカ人と叩き、

鎌倉の山奥で叩き、藤沢の歩道橋で叩いた。

叩けば叩くほど流れに乗れた。

流れ流れてバンドにまで誘われた。

トランスとレイブを行き来するバンド。

「80(エイティー)」というバンドだった。



シーケンサーとシンセとギターとベースが

轟音でインプロを鳴らしている中で

いくらジャンベを叩いても聞こえるわけがない。

音で交わるというよりも

叩くという運動によって踊っているだけ。

何が演奏されているかさえ聞き取れていなかった。

つまり自分は音楽を奏でてはいなかった。

そして踊るからには刺激が必要になるし

刺激がなくてはとても叩いていられない。

でも刺激さえあれば「同じ場所」へ飛べる。

かくして自分は刺激を破滅的に摂取しはじめる。



ほぼ毎週のように

ライブ、レイブ、ライブ、レイブ

刺激、エフェクト、刺激、エフェクト。

こんな生活を2年くらい続けた。

大学にはまったく通っていなかった。

2年間でとれた単位は2だけ。

ひたすら「同じ場所」へ行くために

刺激を求めて放浪し続ける。

中途半端なヒッピーのような暮らしだった。



かといってヒッピーになる度胸もなかった。

世界を放浪したいという気持ちも起きなかった。

自分のない不安さと、自信のなさから逃げるため、

刺激によって気絶し続けるしかなかった。



失われた音楽(=憎悪=生き方)を

取り戻すつもりだったのに、

いつしか存在までをも失いかけていた。

あまりにも手応えのない人生。

この先生きていける気がしなかった。

もはや逃げ切るための刺激、

終わらせるための刺激となり、

バンドが空中分解した後は

音楽すらも聴かなくなる。

そして人とも会えなくなり

ひたすら引きこもるだけの毎日へ。

確かに刺激はかりそめの音楽を与えてくれたけど、

決定的な何かを奪い尽くしていった。

これが音楽との決別、第三章。

(つづけなくてもいいか)






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