3月17日(火)に考えたあれやこれや
生来、自分は音楽と未分化であった。
はじめに音ありき。
自宅がピアノ教室だったのだ。
ソルフェージュ、バイエル、ソナチネ
ソナタ、コンチェルト、etc…
一般的なピアノ教則課程で習熟するほとんどすべてを
まだコトバも持たないうちから毎日、くる日もくる日も、
環境音として、子守歌として、呪縛の表象として聞き続けた。
2歳。自分の記憶はここからはじまる。
誕生日の日、近所の幼なじみたちと
夕暮れ時に空き地の前に座って
ドラえもんのポテトチップスを食べた。
あのオレンジ色の空が人生で最初の思い出だ。
そしてこの年、ピアノとバイオリンがはじまった。
呼吸するのと同じくらい自然に耳にしていたため
演奏は苦手ではなかった。むしろ得意。
ただ自分で選んだ喜ぶべきものではなく、
両親に強制的にやらされる労働、
という点で戦いの歴史が幕を開ける。
毎日各2時間、計4時間の練習が絶対的な義務。
土日祝日、盆暮れ正月も関係ない。
アラレちゃんも、キン肉マンも、北斗の拳も、
八時だよ全員集合も、俺たちひょうきん族も関係ない。
野球も、サッカーも、剣道も、空手も関係ない。
逆らえば鉄拳が飛んでくるし、ご飯が出てこない。
鍵盤は涙で滑り、バイオリンのニスは
ゼブラ柄に剥がれ落ちていった。
必然的に自分は音楽を憎む。
ピアノのタッチは北斗百裂拳のごとく、
バイオリンのボーイング(弓の動き)は
はじめの一歩のコンビネーションのごとく、
猛烈に憎みながら演奏し続けた。
10歳。小学校4年生のころだ。
ざわつく大ホールのステージに立ち、
会場の観客を見回し(睨み回し)、
憎悪のボルテージは最高潮に達する。
俺はこんなに辛いのに、憎いのに、
お前らはなにをそんなにヘラヘラしているのだ。
あまりの怒りでテンポは倍速になり、
憎い、憎い、憎い、憎い、
と唱えながら弾ききったのを覚えている。
ところが大人たちは大喜びだ。
あんなに早く弾けるなんて!
あんなに感情的だなんて!
お前たちは何も分かっていない。
これは俺の呪いだバカヤロウ。
絶対服従がデフォルトであった毎日の中で、
生きるモチベーションもくねくねと屈折した。
やりたくないことでも
上手にできれば大人たちが褒めてくれる。
小遣いをくれる。物を買ってくれる。
つまりやりたくないことは贅沢の宝庫だ。
小中学生にとっては唯一の財源だ。
そして自分は稼ぐために
憎しみの演奏、怒りの労働をし続ける。
ところがイメージが消えてしまう。
生きるイメージが途絶えてしまう。
今までは音楽への憎しみと怒りにまかせ、
やりたくない人生を生きてきた。
でも17歳で高校をやめてしまうと、
やりたいことだけ
自分のチカラでやればいい。
やっと自由を手に入れた(恥ずかしい)のに
何を憎めば、何に怒ればいいのか分からない。
つまりどう生きて良いのか分からない。
憎悪=人生になっていた自分は、
自分の意志で生きるという
まったく新しい世界において、
(そしてとても当たり前な世界において)
右も左も分からない初心者となった。
これが音楽との決別、第一段階。
「憎悪」を自動的に得られる環境に
甘え続けてきた自分は、
自分の感情に耳を傾けることを怠ってきた。
つまり自分がなかった。
1996年。東京。
一人暮らしをはじめた17歳の白痴は、
水が高いところから低いとこへ流れるがごとく、
すこぶるミーハーに時代に流されはじめる。
好きだからやる、のではなく、
やらなくてはならない何かを探し求めて。
失われた憎悪と失われた自分を求めて。
はじめから終わったゲームに挑み続けた。
なんとか生きるために、
自分から離れてしまった音楽を
もう一度体内に取り戻す作業。
それも自分で選んだ音楽が必要だった。
ところがそもそも
選ぶ主体である自分がいない。
かくして17歳の阿呆は、
音楽ではなく“音楽周辺”と出会っていく。
もっともショッキングだったのは
ゴアトランスだった。レイブだった。
なんとなく行ったタイで
なんとなく立ち寄ったパンガン島で
なんとなく知っていたトランスに、
脳天をかち割られ臨死体験。
笑い声が物体となって天井に当たり砕ける。
咳をすると方眼紙が際限もなくクローズアップする。
目を閉じるとスロットが回っていて、
シャキーンッ、シャキーンッ、シャキーンッ
と目が揃うと将棋の駒が並んでいる。
王将、角、と金。
と金?なんでと金だけ赤いの?
赤い?なんで目の前が赤いの?
目をつぶっても目を開けても同じ景色。
部屋の中には「お母さんといっしょ」の
ポロリ(ねずみ)がうじゃうじゃいて、
みんな警察の帽子をかぶっている。
その中にピッコロ(ペンギン)が一匹だけいて、
その肌はリアルなペンギンの肌だ。
うう、ジャジャマル(犬みたいなの)だけ
一匹もいないじゃないか。
ピッコロが多すぎる。
ホワイトアウト
「憎悪」の変わりを果たしたのは
思考を変容させる「刺激」だった。
謂われの知れぬ多幸感。
抗うことのできないビジョン。
無条件に約束された「同じ場所」。
それは音楽の周辺にある刺激だった。
つまり音楽そのものではない。
こうして自分は音楽の代わりに、
手放してしまった憎悪の代わりに、
純然たる刺激を食べて生きていくことになる。
これが音楽との決別、第二章。
(つづけるのか)
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