毎日、しらとりが書いて、まるやまが描くブログです。

2011年1月26日水曜日

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2011年
1月19日(水)





持ってるもので戦うしかない



コンペのプレゼンに向け数時間に及ぶ打ち合わせ。

ここで代理店からなんの指示をもらえないとしても

あなたはけっして腹を立ててはいけない。

たとえ相手には1週間のオリエン準備期間があり

こちらの制作期間はたった1日しかなかったとしても

あなたはけっして不平を漏らしてはならない。



なぜならここにはバランスや理屈は存在せず

「権力を金で買う」過剰なエコノミーがあるだけだからだ。

そして彼らが所有する「案件」とはつまり「うまそうなマンモス」であり

我々はそれを狙う気狂いな「ハンター」にすぎない。

ウサギを追うより、木の実を拾うより、がっつりマンモスを仕留めたい。

そのリスクを上回る欲求が代理店という「狩り場」を選ばせるのだ。



もちろんあなたが「農耕型民族」であるならこんなリスクを背負う必要はない。

たゆまぬ努力と蓄積された技術によって計画的に「案件」を育てればよい。

しかし思うのだけど

生きていくために背負わざるを得ないリスクの総量というものは

結局両者ともさほど変わらないのではないだろうか?

夜盗虫に襲われ全滅する畑があるように

農耕型民族には農耕型民族のリスクがあるのだ。



こんなことをいうと

あなたは個人の権利やプライドというものを主張するかもしれない。

誰かに支配され歯車のように働くのではなく

もっと自分らしく自由に働きたいと言うかもしれない。

もちろん僕だってそういった気持ちがないわけではない。

ただそれにはどうしても特殊な力が必要なのだ。



貴族のようにあらかじめ権利の与えられた力でも

ある分野でずば抜けた能力を発揮するでもいい。

あるいは人に見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえるでもいい。

なにかに支配され、何かのために人生を生きないようにするためには

自分の力が発揮できるだけの「狩り場」と

自分にしか狩ることのできない「マンモス」を獲得するしかないのだ。



しかし

そんな自分の欲求に叶うだけの境遇を

いったいどれだけの人が手にしているというのだろう?

またそれが万人に与えられ、与えられるべきものであるのならば

なぜここまで歴史がそれを否定しなければならなかったのだろう?

「努力が足りない」なんて残酷なことは言えない。

地球上で人間が平和を実現した記録なんてまだどこにもないのだ。



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と、いろいろ考えすぎるベトナム銀座最前線。

でも、「誤解の総体こそ真実なんだ」と思うようにしてます。

つまり相対的な僕は総体の一部なわけです。

そう思うとちょっとは気が楽です。

僕には僕の役割がある、ということです。



仕事後、社長と喰った寿司が美味しくて

結局難しい話なんかどうでもよくなりました。

そんなもんです。

明日もがんばろー









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