毎日、しらとりが書いて、まるやまが描くブログです。

2011年1月17日月曜日

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2011年
1月11日(火)





母親の誕生日に湯煙のごとき妄想



あのとき、そう、深夜にひとり

ボケッと風呂に浸かっていたときのことです。

そのとき、ほんとうに突然、大げさに言えばまるで啓示でも受けたかのように

「自分が愛おしくて愛おしくてたまらない」

そんな感情が押し寄せてきたんです。

今までの私はどちらかというと

自分が憎くて憎くてたまらない、というようなタイプの人間でしたので

自分を愛するなどという感情ははじめてのことでした。

ええ。

もちろん非合法なものは一切摂取していないのにです。

お酒すら一滴も飲んでいませんでした。

いつもとなんら変わらない、きわめて素面な状態だったのに

それはもうとてつもなく、そして、謂われの知れぬ多幸感でした。



あまりにパワフルで、強烈な気持ちよさだったので

この瞬間が永遠に続いてくれればいいのに、と思ったほどでした。

今、あらためて思い出してみると

エクスタシーに近い自己愛、とでも言いましょうか。

気持ちいい物質がブワッと体内にあふれ出し

眼球の裏側から瞼、額へと上昇し

脳天で折り返すと脊髄に流れ込み、一気に全身を駆け巡る。

そんなしびれるような肉体的快感を伴っていたように思います。

え?

ええ。勃起はしませんでしたよ。

そう言われてみるとそうですね。

確かに勃起していてもおかしくない状態でした。

しかしまあ、とにかくその時の私は

突然降って沸いたこの多幸感に浸ることしかできませんでした。

湯気で煙る風呂の中で、じっと膝を抱えながら

「こんな気持ちにさせてくれてありがとう」と

ただただ何者かに感謝していたように思います。



夢のような時間。

そう、まさに夢のような時間でした。

しかし、この幸福なひとときの後に待ち受けていたのは

未だ体験したことがないような強烈な焦燥感でした。

一度こういった完全な幸せを感じてしまいますと

今度はそれを失うのが怖くなってしまうのかもしれません。

まるで朝と夜が入れ替わるように

それまでの多幸感は焦燥と恐怖に塗り替えられてしまいました。



私というものは

肉体、内蔵、頭髪、歯、視力、気力、体力にいたるまで

今を境に止めどなく朽ちてゆくものなのだ。

坂道を転がり落ちるように、咲いた花が枯れていくように

それは誰にも止めることができないものなのだ。

せいぜいできることといえば

失われ、損なわれゆくスピードを少しでも遅らせることくらい…。



いったんそんなことを考え出してしまうと

もう月日が経つのが惜しくて惜しくて

今まさに過ぎゆくこの1秒までもがもったいなくなりました。

いったいなぜ私は今までのほほんと暮らしてきたのかと

過去の自分にまで腹が立って仕方がありません。

挙げ句、「もはや一刻も無駄にしてはいけない」といきり立ち

3日3晩かけて長大な人生計画を立てる始末。

ええ、そうです。

それがあの愚かな計画だったです。



ご存じのとおり、計画はあのようなかたちで頓挫することとなりました。

私は失われゆく自分を堰き止めるどころか

仕事、財産、家族、友人、あらゆるものを失ってしまったのです。

巷で言われていることはほんの一部に過ぎません。

ほんとうにありとあらゆるものが去っていきました。



すべてが終わったあとの私は

「この世は虚しい、俺も虚しい」などと嘆き散らす

酢漬けの腑抜けのようになりました。

元の木阿弥、堂々巡り、というやつです。

ただ

あの多幸感だけは忘れられません。

今でも思い出すだけで鳥肌が立ち、胃腸がキュッと緊張してしまいます。

できれば、もう一度だけ

あの完璧な快感を味わいたい。

なんならこの命と引き替えにでもいいから

あの日感じたあの多幸感をもう一度感じたい。

私の望みといえばそれだけです。

だから今夜もあの日のように

こうしてボケッと

風呂に浸かっている次第なのです。










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