毎日、しらとりが書いて、まるやまが描くブログです。

2010年5月28日金曜日

5/24






2010年
5月24日(月)







『象られた力』 (飛浩隆)がとてもおもしろかった。

ので以下のようなことを考える。


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欲望とは力で、力とはカタチだ。

想像することは欲求であり

欲求は既にあるもののカタチに変え

新たな形象を創り出す。

そこには生物学的な快感があり

その快感をトリガーにより一層強い欲望が生み出される。



この創っては壊すという快感

「欲望と力とカタチ」なるものは

疫病のように人間を支配する。



そういえば人間以外にカタチをつくる動物はいない。

ん?そんなことはないか。

動物は子作りもするし巣作りもする。

ビーバーは立派な水上基地を創り上げ

キツツキはわざわざ固い樹木をうがち巣穴をこしらえる。

となると巣作りはもっともプリミティブな欲望なのか?

巣というカタチ、子というカタチを生み出す野生動物の行為は

欲望といっていいのか?

いや、生きていくのに必要のないものまでもを創り出し

そこに意味を見いだし、見いだせず悩み死んでいく。

その過剰性が人間に巣くう疫病なのだ。



この疫病に対し、近年「強制終了コマンド」を行う種族がいる。

ニートだ。

しかし本当にそうか?

ニートは欲望を強制終了しているのか?

そうではあるまい。

むしろ疫病で寝たきりになっているのがニートなのだ。



ニートはおいといて

やはり「強制終了コマンド」は存在する(と思う)。

たとえば禅でいう諦観や解脱は欲望からの解放であり

つまりそれは人間に巣くう疫病への「強制終了コマンド」だ。

もしくは「強制終了コマンド」探しかもしれない。



しかし強制終了というからには、やはりこれは自然な行為ではないのだろう。

動物の中で唯一この疫病にかかったのが人間であり

人間が人間である条件にこの疫病は組み込まれているのかもしれない。

同族を殺し、国を滅ぼし、山を壊し、海を埋め立ててまで

カタチを生み出す力に酔う。

そしてそれは過剰に肥大するほど快感を増すため

経済活動と自然に結びついてゆく。

「欲望と力とカタチ」は「金」を媒介に

自らをエクストリームな領域まで推し進めようとする。

大企業の社長が少年のような目で「世界一の会社を目指したい」というとき

疫病が引き起こした過剰な欲望の正当化にゾッとしてしまう。



なぜゾッとしてしまうのか?

自分でも分からないが生理的にゾッとする。

それが成功ではなく破滅に向かっているようでゾッとする。

わたしのイメージは間違っているのだろうか?

弱虫という疫病にかかっているため正常な反応ができないだけなのだろうか?

という自問自答のスパイラルにもゾッとする。



そこで「強制終了コマンド」だ。

つまり「積極的に生きないことで積極的に生きる」というような人生。

過剰な欲望、過剰な力、過剰なカタチを必要とせず

はんぶん諦めてはんぶん楽しむ厭世。

もしそうできれば、少なくとも今よりは平和に生きていけると思うのだけど。

いや訂正。楽に生きていけると思うのだけど。



と、頭では願っていても、ボディーは強制終了に失敗してしまう。

なにかのアプリが立ち上がったまま、過剰性は去ろうとしない。

ホメラレタイ/アイサレタイ/シリタイ/ヤリタイ/ツクリタイ

つまり結局今日もまた、隣の芝生は青く燃え続けています。



でも、ワクチンの打ちすぎはよくないメン!

ぷすっ











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